汗と泥と硝煙の匂いがするよ。 彼はいつもそう言って、ルルーシュの抱擁をやんわりと断ろうとするのだけれど、ルルーシュはいつもその言葉を 無視して腕を伸ばす。汗の匂い。泥の匂い。硝煙の匂いはすでに時間が経過していてルルーシュには微かにしか 嗅ぎ分ける事が出来なかったけれど、引き寄せた身体からは確かに彼の言う通りの匂いがする。色々なものが混じった 外の世界の匂いだ。 「日なたの匂いだな。」 そう言ってルルーシュが笑うと、困ったように彼は笑う。その顔がいつも少し泣きそうに見えるのは、ルルーシュの 気のせいなのだろうか。おそらく勘違いではないと思いながらも理由を問う事はできない。問い掛けたとしても、 彼はさらに苦笑を深めるだけで口を閉ざすに違いないのだ。彼はそういう男だった。 少し寂しい気持ちがして、抱擁を解く腕の動きが鈍くなる。ゆるゆると名残惜しげに彼の身体を解放した後、 ルルーシュはいつも通りの親しげな笑みを浮かべて言葉を紡いだ。 「おかえり、スザク。」 そしてスザクは陽だまりのように暖かな笑みを返すのだ。 「ただいま、ルルーシュ。」 −1− 頭の回転の速さと要領の良さは帝国宰相シュナイゼル・エル・ブリタニアのお墨付きだ。皇宮内に数多いる皇子皇女の 中でも抜きんでて優秀なルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは、朝から山のように積み上げられていた決済待ちの書類や資料 を午後のティータイム前にはきれいに片づけてしまう。 その日は事務作業が公務の大半を占めていたため、ルルーシュの仕事はそれでほぼ終了した。補佐を務めていた政務官が 書類を片付けながら控えていたメイドに目配せすると、メイドは心得たように礼を取って出て行こうとする。しかし それに待ったをかけたのは、執務室の主であるルルーシュ本人だった。 「お茶の用意は結構だ。これから少し出かける。」 「どちらへ?」 政務官の問いかけに、ルルーシュは艶美な笑みでもって答えた。 「散歩だよ。」 公務の際に身に纏う華美な装飾のスーツを脱いで、皇子が着るにはあまりに質素な黒のジャケットとコートを羽織ると、 ルルーシュは急ぎ足でアリエスの離宮の広い庭を突っ切り、普段は使用人しか使わない裏門を目指す。多種多様な 木々が生い茂る林の先にそれはあり、そこを抜ければ市民が生活を営む市街地へと出られるのだ。誰にも知られず皇宮を 出たい時は、いつもそこを通っていた。 「ルルーシュ。」 目的地に向かって一直線に足を動かしていたルルーシュの耳に硬質な声が降りかかる。立ち止まって視線を動かせば、 木の幹に身体を預けて立つ姉のコーネリアの姿があった。 「姉上、いらしてたんですか。」 「まあな。」 「アリエスの離宮のティータイムに呼ばれましたか?でしたら今日はテラスですよ。」 「知っている。」 「では何故ここに?」 わざとらしく首を傾げたルルーシュに苦々しい表情で一瞥を送った彼女は、厳しい眼差しのまま口角を吊り上げ、形だけ の笑みを作って唇を開いた。 「ルルーシュ。最近、ネコにご執心だそうだな。」 その一言にルルーシュの片眉が微かに吊り上げられた。 「最近ではありません。昔からですよ。」 「ふん。物好きも良いが、ネコは気まぐれで移り気な生き物だ。手痛い裏切りに合わぬ内に、早く手を切る事だな。」 その言葉を受けたルルーシュがにっこりと微笑む。清らかで曇りのない表情にも見えるが、それは表情筋を自在に操って、 腹に抱える様々な思惑を綺麗に覆い隠しているだけの事。彼をよく知るコーネリアの目には、それが怒りの表情に見えた。 「ご忠告ありがとうございます。でも、俺は昔から動物には好かれるので。」 心配無用だと付け加えてやると、コーネリアは眉を顰めて踵を返す。 「私はネコは好かん。」 そう一言だけ言い置いて、彼女は招待された茶会へ向かうため、離宮の奥深くへと歩いていった。ルルーシュも再び方向 を戻し、裏門へと歩いていく。秀麗な顔は僅かに顰められ、頭の中には先程の姉の言葉が蘇る。 コーネリア・リ・ブリタニアは皇女でありながら戦場を駆け抜ける軍人気質の勇ましい女性だ。彼女の気高く誇り高い 戦士としての矜持を、ルルーシュは弟として誇らしく思い敬愛している。しかし悪く言えば排他的で選民意識が強い 彼女は、しばしば立場の違う者に対して辛辣な言葉を送る。ルルーシュにはそれが少し腹立たしかった。 ルルーシュが供も付けず市街地を歩く事に、彼はいつも難しい顔をする。けれど皇宮の周りはブリタニア国内でも特に 治安が良い上、目的地である彼の家までは徒歩で5分程度のものなのだ。わざわざその距離を歩くためだけに大袈裟な 護衛を配備する方が煩わしい。それに、彼とは気安い顔のままで会いたいのだ。供を付けるなど無粋も良い所である。 人家が疎らに立ち並ぶ一角に、その家はある。木造の小さな家は、彼の父がこの地に移り住んだ時に自ら建てたという お手製のもの。木製のドアの前に立ってチャイムを鳴らせば、中からは騒がしい足音が聞こえてくる。相変わらず元気 そうだと気を良くしながら扉が開くのを待っていると、中からひょっこりと顔を覗かせたのは待ち望んだ幼馴染――― ではなく、黒い毛並みの猫だった。 「アーサー。お前も何だかんだでスザクの帰りが嬉しいんだろう?」 笑って声を掛けてやると、アーサーはルルーシュの足元に擦り寄って、抱いてくれとばかりに彼の爪先に前足を乗せる。 ルルーシュが身を屈めてその身体を抱き上げると、家の中から苦笑する声が聞こえた。 「アーサーが嬉しいのは貴方と会えるからですよ、殿下。」 「・・・スザク。」 玄関先に立つ男を睨みつけ、ルルーシュは恨みがましい声で言葉を紡ぐ。 「殿下は止めろ。」 「しかし、」 「俺達は友達だろう?」 再会の時はいつもこのやり取りから始まる。よくも飽きないものだとルルーシュは呆れるが、スザクとしてはけじめを 付けたいらしいので懲りずに同じ言葉を繰り返す。結局、友達だろうと問われれば否定できないスザクの敗北で終わるの だが。 「・・・うん、わかったよ。ルルーシュ。」 今日も今日とて再会の挨拶はスザクの敗北に終わった。ルルーシュは満足そうに笑みを浮かべると、アーサーを腕に 抱いたまま家の中へと足を踏み入れる。その様子を見ていたスザクが眉尻を下げて苦笑いを浮かべた。 「もう、アーサーってば飼い主の僕には触らせてもくれないくせに、ルルーシュにはしっかり甘えるんだから。」 スザクがそうっと指を伸ばすと、気配を察知したアーサーがその指にがぶりと噛み付く。 「いたっ!」 「これはこれでスキンシップのようにも見えるが・・・。」 「そうかなあ?」 「お前が普段家にいないから、拗ねてるんじゃないか?」 くすくすと笑うルルーシュの腕の中で、アーサーは大きくあくびをして気持ち良さそうに瞳を細める。それは何だか 納得の行く光景ではなくて、スザクは不満気に顔を顰めた。それを見たルルーシュがますます笑みを深める。 スザクは仕事の都合で家を空ける事が多い。まだ若干17歳と若いながらも、その筋で名の売れ始めた彼は世界各地を 飛び回っていた。彼が2年程前から飼い始めたアーサーはその度に留守番だ。と言っても、スザクに飼われる以前は野良 として生きてきた猫なので、主人が家を出る前にはふらりと外へ出て行き、彼の留守中は野良猫に戻って近所を逞しく 生きている。飼育上の問題は特にないようだった。 ただ、そんな生活なので、飼い主であるスザク自身もアーサーを飼っているのか否かよく分からない時がある らしい。それでも彼が家に帰ってくる時には玄関先で大人しくちょこんと座って待っているのだから、この家を 自分のホームとして認識しているように思うのだ。たとえアーサーがスザクに甘えた試しがなくとも。 ルルーシュがそう言うと、スザクは悲しげな表情で首を振った。 「違うよ、アーサーが待ってるのはルルーシュ。」 「俺?」 「僕が帰ってきたら、君がいつも顔を見に来るだろう?それを待ってるんだ。」 「まさか。飼い主でもないのに。」 ところがスザクは再び首を振った。 「本当だって。今日だって、僕が帰ってきても全然無視して、玄関先に座り込んだままだったんだ。今日は寒いから 無理やり家の中に入れたんだけど、暴れるわ引っ掻かれるわで大変だったんだよ。でも玄関のチャイムが鳴った途端に 扉へ向かって一直線。よっぽど君の事が好きなんだろうね。」 「そうなのか?アーサー。」 腕の中の存在に問い掛けてみると、そうだと言わんばかりに甘えた声で鳴く。 「もう諦めてるけどね。」 スザクが肩を落としてそう言うと、ルルーシュは彼を慰めるように頭を撫でる。 「ルルーシュ?」 腕に抱きこんだアーサーを床に下ろしたルルーシュは、「お疲れ様。」と声を掛けてスザクの身体に腕を回す。 労わるようにその背を叩くと、スザクからは戸惑いの声が上がった。 「ルルーシュ、僕汗臭いよ?」 「そういう事をいちいち気にするな。半年振りに会ったんだぞ?再会の抱擁くらい黙って受け入れろ。」 「はいはい。」 苦笑しながらそう返すスザクに、ルルーシュは穏やかな声音で声を掛ける。 「おかえり、スザク。」 「ただいま、ルルーシュ。」 身体を離して改めてスザクと向き合えば、ハイネックのセーターから僅かに覗く包帯の白が見え、ルルーシュは微かに 眉を寄せた。 「・・・また怪我したのか。」 スザクは困ったように笑う。 「うーん、まあ仕事が仕事だからね。銃弾が掠っただけだし、たいした事はないよ。命があるだけましだ。」 何でもないように紡ぎ出されたスザクの言葉に、ルルーシュの血の気が一気に引いていく。それは笑って言うような 内容ではない。 「・・・スザク、やはり今の仕事は止めろ。戦場が職場なんてどう考えても危険すぎる。」 「でも、僕にはこれしかないし・・・。」 「だから何度も言ってるじゃないか!俺の騎士になれと!戦う事しかできないと言うのなら、せめて・・・!」 スザクの両腕を掴み必死になって訴えるが、彼は緩く首を振るとルルーシュの腕をそっと外していく。 「駄目だよ、ルルーシュ。だって僕は、ネコだから。」 「またそれか・・・!」 声を荒げたルルーシュは俯く。その言葉を聞いたのは今日で二度目だ。 騎士、軍人。主のため、あるいは国のために武力を持って戦う者達はその忠義心を指して(あるいは揶揄して)イヌと 呼ばれることがある。その対極にいるのがブリタニアでネコと呼ばれる者達だ。彼らは絶対の主を持たない。国のために 戦うでもない。報酬さえもらえればどの国のどの輩にも付いていく。のらりくらり。宿を変え、飼い主を変えて気ままに 戦場を駆けていく。つまり、ネコとは傭兵を指す言葉だった。 「餌をくれるなら誰にだって媚を売る。ネコとはそういう存在だ。」 「お前は違うだろうが・・・!」 「でも世間はそうは思わない。」 スザクの淡々とした声に言葉を失くす。この話をする時、スザクはどうしようもないほどに頑なだった。 「そんな奴が皇子殿下の騎士だなんて、許されるはずがないだろう?」 だから、駄目。 そう言って幼い笑顔を浮かべる幼馴染が憎らしくて仕方がない。盛大に顔を歪めたルルーシュはくるりと身体を反転させ ると、入ってきたばかりの玄関に向けて突進するように歩いていく。 「ルルーシュ?」 「夕方から宮殿でパーティーがあるんだ。準備があるので帰る!」 「近くまで送っていこうか?」 「結構だ!」 少し振り返って声を荒げて断ると、スザクは笑みを浮かべて見送りの言葉を送る。 「そっか。気を付けてね。」 引き止めるわけではない、ただの呼び掛けが非常に腹立たしい。あからさまに機嫌を急降下させて出て行こうとしている のに、スザクはちっとも焦った様子を見せないのだ。自分ばかりが必死に彼を求めている。まざまざと突き付けられた 現実を前にルルーシュは唇を噛んだ。 再び踵を返した彼の背に、スザクの柔らかい声が降り注ぐ。 「ルルーシュ、今日はありがとう。」 足を止めたルルーシュは、もう一度スザクを振り返った。 「忙しいのに、わざわざ足を運んでくれたんだよね?ありがとう。久しぶりに会えて嬉しかった。」 陽だまりの笑みが、ルルーシュの怒りを柔らかく溶かしていく。一瞬にして心が平らかになってしまった。振り上げた 拳の落とし所に困ったルルーシュは、些か気恥ずかしい思いで口を開く。 「・・・明日、午前中の公務は何も入っていない。」 瞳をぱちりと瞬いたスザクから視線を外し、小さな声で付け足しをする。 「また来る。」 そう言い残すと長い足を大きく開いてすたすたと歩いていく。スザクは笑みを浮かべてその背を見送った。 ルルーシュが出て行った玄関の扉を、アーサーが爪でカリカリと引っ掻いている。木製のドアはそれだけで簡単に 傷ついてしまい、もういくつとも知れない彼の爪跡がまたひとつそこに刻まれてしまった。スザクは苦笑すると アーサーの身体を抱き上げ、腕の中で居心地が悪そうに暴れる彼に小さな問い掛けを落とす。 「アーサー、彼に付いて行きたいの?」 機嫌が悪そうにふにゃあと鳴き声を上げるアーサーは、当たり前だと叫んでいるようだった。 「駄目だよ。だって、相手は皇子様なんだから。」 アーサーの小さな頭に頬を摺り寄せ、スザクは言い聞かせるように言葉を続ける。 「彼の隣に、ネコはいらないんだ。」 そんなわけあるか!と抗議するように、アーサーはスザクの頬に鋭い爪を突き立てた。 青い春の予感がする話。続きます。 |
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